歯のゆらぐ男と口臭き女
本日は、磯村寿賀人先生の『おもしろい歯のはなし60話』よりお届けいたします。
◇歯のゆらぐ男と口臭き女
歯科の二大疾患はむし歯と歯槽膿漏(歯周病)です。昔の人たちはそれらが引き起こす痛みと歯がなくなる不自由さに苦しめられたようです。
むし歯は歯が腐ってボロボロと朽ちていくのが目に見えるので、口の中に目に見えない虫がいて、それが歯に取り付いて腐らせるのだと考えられてきました。
しかし、歯槽のうろうでは健全な歯がグラグラと動き出して、ついには抜け落ちてしまうその不思議さをどう解釈したらよいのかと、とまどいを見せています。
歯の根のまわりに悪い液状のものがたまって、それが歯の根を押し上げて歯がぬけてしまうのだと考えてもいたようです。
中国の『病原候論』という書物には、「歯漏(しろう)」として、「手の陽明の支脈は歯に入る。風邪経脈に客として歯根に流体して齦を腫らし膿汁を出さしめ、癒えて更に発る。これを歯漏という」と記されています。
歯肉が腫れて膿みが出る症状として、歯槽にうろうのことが書かれています。
唐の詩人韓癒に次のような詩があります。「去年は一つの牙(奥歯)落ち、今年は一つの歯(前歯)落ちぬ。俄然として落つこと六つ七つにして、落ちる勢いは殊にいまだやまず、あとに存(残れる)するものみな動揺し、すべて落ちてのちおそらく始めて止むべし」と。
歯がつぎつぎと失われていくのにどうするすべもない無力さをなげいています。
日本では、『病の草子』という絵巻物に、歯槽のうろうに苦しむ男女の様子がおもしろおかしく描かれています。平安時代から鎌倉時代にかけて後鳥羽上皇に仕えた土佐光長の作と言われています。生老病死に苦悩する人々のありさまや病相が描かれていて、疾病の図録としては世界最古のものと言われ、国宝に指定されています。(写真は京都国立博物館のHPより)
その中に、「歯のゆらぐ男」と題して、「おとこありけり、もとよりくちのは、みなゆるきて、すこしも、こわきものなれば、なましひに、おち抜くることはなくて、ものくふ時にさわりてたえかたりけり」とあり、中年の男が食事をしながら、口を開けて痛む歯を女房に見せている絵が描かれています。表情豊かで、当時の庶民の生活ぶりが伺われます。
もうひとつは、「口臭き女」と題し、「宮こに女ありけり、みめ。かたち、かみすかた(髪、姿)あるいかしかりければ、人さこしにつかいけり、よそに見るおとここころをつくしけれとも、いきのか(息の香)あまりにくさくてちかつきよりぬれは、はなをふさきてにけぬ。たたうちいたるにも、かたはらによる人くささにたえかたかりけり」との詞書があり、中年の高貴な身分の女性が歯をみがいているそばで、女官がたもとで口をおおって臭いを防いでいます。あまりに口臭がひどいので、男に逃げられてばかりいるとの説明書きには苦笑させられます。「歯がゆらぐ」とか「口臭がする」というとは、おそらく重度の歯槽膿漏にかかっていたと思われます。
参考文献 おもしろい歯のはなし 60話 磯村寿賀人著 大月書店
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