色覚とコミュニケーション
本日は、日本経済新聞に平成19年12月9日号に掲載された『サイエンス』の欄よりお届けいたします。
◇色覚とコミュニケーション
ヒトやサルは哺乳類では例外的に色覚が発達しています。イヌやウマが赤と青の二つの色覚センサーしか持たないのに対し、ヒトやサルは緑を加えた三原色の世界で生きています。森で果実を見つけるのに有利だからというのが定説ですが、「仲間の顔色をうかがうため」とする新説が登場しました。
脊椎動物が色を識別するようになった始まりは、「カンブリア記(およそ五億五千年前)。魚類が生まれたこと」と河村正二・東京大学准教授は見ます。
そのころ、地球にあった巨大な大陸が分裂し浅瀬が出来ました。浅瀬の水中は光が差し込み、きらきらゆらめく。そこで生き抜くには明暗だけでなく、色の違いも見分けた方が有利だったと考えられ、魚たちは優れた色覚を発達させました。
多くの魚は四つの色覚センサーで世界を見ます。赤青緑に加えて紫外線。ゼブラフィッシュなど熱帯魚の中には八種類のセンサーを発達させた魚もいます。
魚の色覚の四色型は爬虫類や鳥類にも受け継がれています。ヘビや小鳥が鮮やかな皮膚や羽を持つのは視覚の発達と関係あると考えられます。カエルなど両生類についてはまだよく分かっていません。
ところが、同じ能力を受け継いだはずの哺乳類は四種のセンサーのうち二つを失いました。哺乳類の誕生直後にやってきたのは恐竜全盛期。恐竜から身を隠すため長らく夜行性の生活を続けた結果、色を細かく見分ける必要がなくなったらしいのです。
多くが二色型である哺乳類にあって、なぜかヒトを含めたサルの仲間だけがセンサーを一つ回復して三色型になりました。これが「木漏れ日で暮らすことに関係するのは間違いない」と河村准教授は話します。
ちらちらとする不安定な光環境は浅瀬と似ているわけです。
しかし、三色型の色覚のどこが有利なのかという点は実ははっきりしていないといいます。定説とされるのは「果実説」。緑の中で熟した赤い実を見つけるのに有利と考えます。また、「若葉説」は栄養価の高い若葉を見つけるのに三色型が役立つともいわれます。どちらも採色の優位が三色型誕生の原動力とみます。
そこで河村准教授らは中米コスタリカでオマキザルとクモザルの群れをカナダなどのチームと協力して調べました。
これらのサルは同じ種内に二色型と三色型が混じって存在します。観察を通じてどちらが採食に有利なのかを検証出来ると考えました。サルがどちらのタイプであるかは排泄物のDNA(デオキシリボ核酸)分析でわかるので、個体ごとに食事の様子を追跡するという手間のかかる観察を協力して行いました。
結果は予想外。三色型を有利だとするデータは得られなかったのです。そればかりか昆虫を食べるには二色型の方が有利らしいということが示唆されました。二色型の方が明暗をとらえるのは鋭敏なため「保護色でカムフラージュした昆虫を見つけやすいと考えらえられる」(河村准教授)。定説に一石を投じた形になりました。
論争にまったく別の立場からボールを投げ込んだのが、米カリフォルニア工科大学のマーク・チェンギジ教授、下條伸輔教授らです。「仲間の顔色を知るコミュニケーションのために進化した」と主張します。
怒ったり悲しんだりすると顔色が変わります。血液の量や血中の酸素量が変化する。ヒトの色覚がどんな波長の光を鋭敏にキャッチするかを調べると、顔色の変化を読みとるのに非常に適していることが分かった。「偶然とは思えない」と下條教授。
また様々なサルの顔面の皮膚の露出度と色覚の発達を見比べると、毛が少なく皮膚がよく見える種類ほど、三色型の色覚を発達させています。
群れで生活し社会性が強い霊長類の仲間では、顔がコミュニケーションの道具となっていることは良く知られています。チンパンジーなどは怒りや悲しみなど情動を豊かな表情で表します。生まれたばかりの人間の赤ん坊は母親の表情に敏感です。
「顔色仮説」は顔色と色覚の関係にまで顔のコミュニケーション機能を発達を広げて考えるものといえます。
「霊長類の色覚発達は最初は採食のためだったのかもしれないが、発達した色覚がコミュニケーションに役立つということでさらに進化、維持されてきた」と下條教授。
現状では、結果からみた傍証しかなく決定打とはいえません。しかし、周囲の顔色をうかがいながら生きているヒトにとっては妙に納得のいく説ではないでしょうか。
編集委員 滝純一 編・著
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