お歯黒は身だしなみ?
本日は、磯村先生の著書「おもしろい歯の話し60話」よりお届けいたします。
お歯黒は「鉄獎(かね)」ともいい、婦女が歯を黒く染めた風習です。一説によれば日本のお歯黒の風習は古墳時代(紀元2~3世紀頃)からはじまったと言われ、その頃の埴輪(はにわ)になかにお歯黒をしたものが見受けられます。
日常の風習となったのは平安時代になってからの事で、平安中期になると、女性だけでなく男性もするようになりました。そのきっかけは、後三条天皇の時代(1069~1072年)にひとりのキザな公家(源有二)の気まぐれからだと言われています。
その公家は、自分の顔を女性のように柔和に見せるためにお歯黒をしました。それ以降、女性の関心を引こうとして男もお歯黒をする習慣ができました。
そして平氏が公家の真似をし、武士も歯を黒く染めるようになりました。「女の歯を染めるは必ず婚談定まりてのことなり、黒色は変亡せざる故、夫婦の間も変わるまじとの義なり」と記されていて、武士は、忠臣二君に仕えず、という意気込みを、女性は貞節すなわち二夫にまみえず、という大切な誓いの意味を持っていたのです。
お歯黒の有名な話しに「新平家物語・巻九」(吉川英治)に書かれた平敦盛の最後の場面があります。熾烈をきわめた一ノ谷の戦いも、暮色とともに平家の敗北が決定的となります。源氏方の熊谷次郎直実が、落ちのびていく敦盛を波打ち際に見付け、力にまさる直実が敦盛を組み伏せて、首をかかんと内兜を持ち上げてみると、年の頃は16~17歳、自分の子供と同じくらいの若大将であることがわかります。「黒々と歯に鉄獎を染め、うっすらと、公達化粧の痕を残し、覚悟の眉をひそめている様、何かあどけなくさえ思われた。いきながら死んでいる乙女の容顔を見るかのような心地がした」、直実は泣く泣く、敦盛の首に刀を入れたとあります。
「北条五大記」にも、昔、関東の敵味方の合戦の時に、首実検でお歯黒をした首を武士の首と言って見せたので、戦場で討ち死にすることを覚悟して、もし討ち死にした時には恥をかかないようにと楊枝でお歯黒をするように心がけていたと書かれています。
しかし、戦国末期には、鉄砲を導入したスピードのある戦いとなったため、お歯黒をする暇も余裕もなくなり、武士のお歯黒は姿を消してゆきます。
一方、女性のお歯黒はますますさかんになり、お歯黒をしない女性は女性ではないとまで言われるようになります。幕末になるとしばしば異人が来航するようになり、彼らにはお歯黒は異様なもの、醜いものと映ったらしく、アメリカ艦隊のペリー提督は「日本遠征記」のなかで、「彼女らが慎ましくほほえむとルビーの唇が開いて、恐ろしげな腐食した歯ぐきに真っ黒な歯が並んでいるのがニュッとあらわれた」と、グロテスクな奇習として紹介しています。
日本の社会に深く浸透したお歯黒が姿を消すのは、明治になってからです。明治元年と3年に、お歯黒をするのは古い制度に従うものであるから、中止すべきであるという禁止令を政府が出すのですが、庶民はなかなかお歯黒の風習をやめようとしませんでした。
そこで、明治6年、皇后と皇太后がみずからすすんでお歯黒をやめて模範をしめし、それから以後、お歯黒の風習は急速に姿を消していったのです。
しかし、皮肉な事にこのお歯黒が虫歯予防に有効なことがわかってきたのです。
参考文献 おもしろい歯のはなし60話 磯村寿賀人著 大月書店
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