歯抜き絵画
本日は、今月8日、日本経済新聞に掲載された虫歯の文化史をお届けいたします。お書きになったのは、鶴見歯科大学の戸出一郎先生です。
虫歯の治療などで歯を抜いたことのある方は多いでしょう。
歯科医が鉗子を使って力いっぱい引っ張るあの感じは何度経験してもいいものではありません。
今は、麻酔技術が発達していますが、麻酔のない時代の抜歯は、今とは比較にならないほどの一大事でした。
私が勤務する鶴見大学では、抜歯をモチーフにした十六~十九世紀欧州の絵画を図書館がコレクションしています。
その数は現在六十点。私は大学勤務のかたわら、これらの絵画から伺える近代以前の歯科医学を研究してきました。
歯抜き人が全国遍歴
まずは典型的な一枚をご覧頂きます(写真参照)。十九世紀フランスの風刺画家ボワイイのリトグラフ「冷たい鉄」(一八二三年)です。
歯科医が患者の額に手をかけてペンチ状の器具で前歯を抜こうとしています。痛みのあまり目をむく哀れな患者。酷薄な表情の歯科医。
抜歯を書いた絵画の多くはこの組み合わせで、どことなく滑稽な雰囲気です。
欧州では専門の歯科医ほか、全国を遍歴し、虫歯を抜くことを生業とする「歯抜き人」と呼ばれる人々がいました。画家たちは彼らの姿も克明に描いています。
フランスの画家ラフェのリトグラフ「歯科医」(一八二五年)を見ると歯抜き人の仕事ぶりがよくわかります。屋外で患者の頭を押さえ、もう片方の手でサーベルを振り上げる歯抜き人。
「さあさあお立ち会い。痛みなしに歯を抜いてみせるぞ」
と口上を述べています。それを半信半疑で見つめる人々の姿がっかれています。
むろん、麻酔なしの抜歯が痛くないはずがありません。患者は歯抜き人の仲間で、歯を抜くふりをしあたと、患者役が「全く痛くなかった」と喜んでみせて客をとろうとしたのかもしれません。
ラッパで悲鳴をかき消す
同じくフランスのデュプレッシ=ベルトーの銅画板「歯抜き人」(一八一〇年)では、泣きわめく患者が羽交い締めにされ歯を抜かれています。だがその悲鳴は歯抜き人の仲間が奏でるラッパやリュートの音にかき消されて見物人には聞こえません。当時は楽団付きの歯抜き人もいたのです。
抜歯の光景から当時の社会風俗も伺えておもしろいです。一八世紀の英国では、金持ちが貧乏人から歯を買うことがありました。風刺画家ローランドソンの銅板画「歯の移植」(一七九〇年)には、みすぼらしい身なりの男が健康な歯を抜かれるのを、着飾った上流階級の女性が見ている様子が描かれています。今でいう格差社会を風刺しているのでしょう。
鶴見歯科大学は過去の歯科技術を知る目的で一九九〇年代に、これらの絵画を集め始めました。画商に依頼しましたが、見つけるには苦労した様です。奮発して数十万の絵画も購入しましたが、おかげで世界でも類のない特異なコレクションが出来上がりました。鶴見大学図書館では時折展示して学生や一般の人にも見て貰っています。
患者の悲鳴が聞こえてきそうなこれらの絵には、恐怖心や欺瞞、欲深さなど人間の本性が赤裸々に表されています。単なる歯学資料ではなく、人間観察の勉強にもなり、それがこのコレクションの最大の魅力でしょう。
ただ、歯抜き人が悪者にされているのを見ると、複雑な気持ちにもなります。私も歯科医になりたてのころ、「人を痛がらせて金をとる」と嫌みを言われました。日本でも戦後間もないことは麻酔も今ほどは効きませんでした。絵の中の光景はあながち遠い昔の話でもないのです。
殉職した守護聖人
最後に、歯痛に悩む人の守護聖人である聖アポロニアの話をしておきましょう。
アポロニアはキリスト教初期の三世紀にエジプトのアレクサンドリアに済む老女でした。
時のローマ皇帝から改宗を迫られたが応じなかったため、歯を抜く拷問を受けた後、自ら刑場の火に身を投げて死んだというのです。
この聖女を描いた絵画は数多く、絵の中では歯をつかんで鉗子を手にしているのですぐに分かります。
鶴見大学図書館は複製を含め一三枚のアポロニア像を所蔵しています。抜歯の絵はユーモラスなものが多く、見ていて笑いを誘われます。だがそこには「虫歯になるとこんな辛い思いをするから気を付けろ」という教訓も含まれています。皆さんもどうぞ歯をお大事に。
麻酔は大きな革命ですね。
麻酔のある時代に生きてて良かったです。
でも 麻酔になるだけお世話にならないように、
予防します。